あらすじ
娘を殺した男がすぐ目の前にいる。贖罪や反省の思いなど微塵も窺えないふてぶてしい態度で。
東京に住む保阪宗佑は、娘を暴漢に殺された。妊娠中だった娘を含む四人を惨殺し、死刑判決に「サンキュー」と高笑いした犯人。牧師である宗佑は、受刑者の精神的救済をする教誨師として犯人と対面できないかと模索する。今までは人を救うために祈ってきたのに、犯人を地獄へ突き落としたい。煩悶する宗佑と、罪の意識のかけらもない犯人。死刑執行の日が迫るなか、二人の対話が始まる。動機なき殺人の闇に迫る、重厚な人間ドラマの書き手・薬丸岳の新たな到達点。
登場人物
・保阪宗佑:キリストの牧師。教誨師も務めている。
・北川由亜:母である優里亜は亡くなっており、優里亜の姉である真里亜に育ててもらう。
・石原亮平:幼い頃両親が離婚して父親についていくが、すぐに祖母宅に引き取られ祖母を殺した過去がある。母親と姉に捨てられたと感じて生きている。由亜を含め4人を殺した死刑囚。
・小泉直也:刑務官。妻と同じ名前である由亜という名前に反応して事件が気になっている。
教誨とは
教誨とは… 刑務所などの矯正施設において受刑者の育成や精神的救済を目的として行われる活動。(全国教誨師連盟より)
保阪は千葉刑務所でもともと教誨師を務めていた。中には殺人を犯した人の教誨も行っていたが、実の娘が殺されたことをきっかけに教誨師としての仕事を続けられなくなる。教誨中の描写では、受刑者の話を聞いて“神の前ではどんな人も赦される”という教えを説いている。
真里亜の強さ
保阪は、当時付き合っていた優里亜に、姉のバーへ連れて行ってもらった際、姉である真里亜と初めて対面するが、その時に心を奪われてしまう。一方真里亜は、亡くした大切な人の影を保阪に重ねてしまう。保阪はどんどん惹かれてしまい、最終的には優里亜に別れを告げて真里亜に気持ちを伝えることとなるが、保阪に告げず優里亜は子どもを産んで耐えきれずに自殺。妹を亡くしてから事実を知った真里亜は恋愛を今後一切捨てることを誓って、妹の子どもである由亜を育てる。
そこからの真里亜はとにかく強い。本当に一切の恋愛をせず、由亜の母親として生きていく。保阪は元恋人を追い込んでしまった張本人として悔いてはいるが、子どもを育てる能力もないことから、真里亜に自分の子どもを預けている。真里亜への未練も見せつつ、といった描写があるが一切真里亜からの矢印は描かれない。自分が産んだ子どもではないのに、母としての決意が固く本当の親子のような関係性がうかがえる。
真里亜の強さに対し、保阪の若さが目立つ。自分でやっとの思いで立ち上げたバーを店じまいし、子育てに奔走した真里亜。自分の罪の意識からキリストの教えを信仰するようになって、実子は別の人に育ててもらう保阪。教誨師になって受刑者に教えを説いていたが、その当人である保阪は怖くて娘に自分が親であることも伝えず、人に何かを言える立場なのか?と思ってしまう。
教誨の中での保阪の言葉
受刑者の中には、育ってきた環境が悪くて犯罪を犯してしまったという人も少なくない。ある受刑者が許せない人がいる、その人のことが憎い、といった内容の言葉を伝えた際、保阪は「その人のことを許してみませんか?」と返す。憎い人をいつまでも許せない限り、自分がその人に囚われてしまうからという理由から保阪はその言葉を伝えていた。
これはとてもうなずける。いつまでも恨んだり憎んだり許せなかったりすると、その人のことが頭のどこかにずっとちらついていて、その鎖にぐるぐる巻きになされてしまう。“許す”ことで、負の連鎖を断ち切り、そこで初めてその人に囚われなくなるという考え。とても参考になる考えであった。例えば親などの嫌な部分をずっと胸に抱えていると似てきているのではないか?と思うようになったりあの人に育てられたせいで、と思ったりしてしまう。そこを許すことで自分が似てきているかも気にならないようになるし、本当の意味で解放されるのではないか。
死刑囚の教誨師
保阪はもともと、殺人を含む受刑者の教誨を行っていた。しかし、死刑囚が収容されている場所ではなかったため、出所してからのことを見据えて相手と話をしていた。
それに対し鷲尾や、その後引き継いだ保阪は死刑囚が収容されている拘置所で教誨を行った。鷲尾は死刑囚の相手をするようになってから「抜け殻になった」というような表現をされている。死刑囚相手に教誨をするとなると、今度は精神面を安定させて死刑執行の際にスムーズに行えるような手助けをする。
この2つは違った目的をもって教誨が行われている。
☆いつか出所する可能性のある受刑者→自分の罪を悔い改めて出所の際には前を向いて生きていけるように、生に対して希望を持たせる。(自殺願望なども防ぐ)
☆死刑確定囚→精神を安定させ、死刑までがスムーズにいくようにする。死刑(人を殺す)手助けをする。鷲尾が言うには、「死神」のような存在。
教誨師も死刑囚も結局は人間であるため、いくら犯罪を犯した人でも何度も面と向かって話をした相手が目の前で死刑執行されていくのは鷲尾も保阪も耐えられないようであった。実際の、死刑囚と向き合っている教誨師は同じような気持ちなのだろうか。
亡くなった人は何も伝えることが出来ない
亡くなった人間は何も伝えることはできないし、亡くなった人間に何かを伝えることもできない。
この言葉を作中では何度も伝えている。遺族としてももちろんこのことを伝えていたが、それ以外にも殺人犯の姉が弟に対してこの言葉を伝えるシーンがある。
実際に死刑執行日、死刑直前には嗜好品を口にすることや遺書を残すことを許されている。その際、死刑囚に「何かお姉さんに伝えることはないのか?」と尋ねるが唯一の肉親である姉に対しても何の言葉も残さず死刑が行われる。このことを姉に伝えるが、保阪は同時に「お姉さんが被害者はもう何も伝えることが出来ないという言葉を伝えたことで、犯人である弟も何も言わないで死んでいくことで唯一の贖罪を行ったのではないか」と話していた。最後の最後であんなに自分の罪を悪いと思わなかった犯人が、教誨師と出会って、姉と話をして、色々な人の優しさに触れることで気持ちが変わったのだなと感じるシーンであった。
感想
とにかく泣けた。教誨師と言う職業のことをきちんと知ったことがなかったが、今作で知るきっかけになった。犯人と対峙することはとても緊張感もあるし、今回で言えば(普通はないとは思うが)自分の娘が殺されて、その犯人の教誨をするというシチュエーションだったので、こんなにしっかり話ができるなんてすごすぎる。
遺族である保阪は許したけれども、自分としては最後に心を改めたとしても殺された人たちは帰ってこないし、石原のことは許せない。動機も許せないものだったのでそこは共感できないけれど、話としてはとてもまとまりがあって面白かった。